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Grotus / グロッタス グロッタスは、1989年から1996年まで活動したサンフランシスコ出身のインダストリアルロックバンドである。民族楽器のサンプリング、2人のドラマー、2人のベーシスト、そして怒りとユーモアに満ちた歌詞を特徴とするユニークなバンドである。 彼らはサンフランシスコで多くの熱心なファンを獲得し、しばしば友人たちとコンソリデーションを行い、ナイン・インチ・ネイルズを含むインダストリアル・バンドのツアーの前座を務めた。地元の新しいレコード会社Spirit Music Industriesからレコーディングを依頼され、その結果、グループのエスニックなインダストリアル・スタイルを紹介するBrownが生まれた。次に、ドラマーに元Pagan BabiesのBruce Boydを加え、よりオーガニックなパンクのフィーリングを持つバンドとなった。この新ラインナップでリリースされた『Luddite on Spirit』は、Brownがよりクラシックなインダストリアル・シーケンス・マシンのグルーヴを出していたのとは対照的に、よりライブバンドらしいものとなっている。...
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Guy Gerber / ガイ・ガーバー ガイ・アブラハム・ガーバー(1974年、テルアビブ近郊のホロン生まれ)は、イスラエルのエレクトロニックDJ/プロデューサー、ミュージシャンであり、アンダーグラウンドテクノシーンで活動している。 彼のプロジェクトは、ヒップホップの人物パフ・ダディとのコラボレーションから、イビザのクラブ、パチャで左遷ナイトを始めるまで幅広い。15歳の時、ガーバーはイスラエルU-16サッカー代表チームのメンバーだった。ドラムマシーンとシンセをいじり始めたガーバーは、すぐに音楽への情熱を持ち始め、ジョイ・ディヴィジョンなどのイギリスのギター・アクトやマイ・ブラッディ・ヴァレンタインなどのアイルランドのギター・アクトに引き付けられることに気づく。その結果、彼のハーモニックでシューゲイザーにインスパイアされたサウンドは、John DigweedのBedrockインプリントの「Stoppage Time」など、ヨーロッパの様々なレーベルでGerberがレコーディングするスタイルとなった。...
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Guru / グールー グールー(Guru、本名: キース・エドワード・イーラム、1961年7月27日 - 2010年4月19日)は、アメリカ合衆国のラッパー。ギャング・スターのメンバーの1人。2010年2月28日に心停止し、昏睡状態になり、2010年4月19日に癌のため死亡。グールーの名の由来は、Five-Percent Nationの教えであるGifted Unlimited Rhymes Universal、God is Universal; he is the Ruler Universalより。(ただし後者はあまり使われない) マサチューセッツ州ボストン郊外のロクスベリー出身。父は判事で、母はボストンの公立学校の図書館の管理人の一人だった。キースはデダムのノーブル・アンド・グリーノー・スクールを卒業した後、アトランタのモアハウス大学で、経営管理学を学んで卒業した。そのあと、マンハッタンのニューヨーク州立ファッション工科大学に通ったが、今度はラッパーを目指すために中退した。その頃、短期間だが社会奉仕に参加したことがある。...
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Guyatone / グヤトーン グヤトーン(英語: Guyatone)は、かつて東京サウンド株式会社が製造した電気・電子楽器、音楽関係機器のブランドである。 創業者の松木三男(1915年 - 1992年)は、第二次世界大戦前の1934年(昭和9年)、日本国内では初のエレクトリック・ギター(エレキギター)製造に成功、とりわけ大戦後のハワイアン・ミュージックブームを支えた[2]、日本のエレクトリック・ギター製造のパイオニア的存在である[1]。1960年代に始まる「エレキブーム」、あるいはグループ・サウンズにおいても、グヤトーンは重要な位置づけをもつ。「エレキブーム」の火付け役と呼ばれたテレビ番組『勝ち抜きエレキ合戦』(1965年 - 1966年)では、模範演奏を行なった井上宗孝とシャープ・ファイブのギター奏者、三根信宏(1945年 - )がグヤトーンを使用、三根が「グヤトーン・シャープファイブ・モデル」を設計したことでも知られる。...
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Hardfloor / ハードフロア ハードフロア(Hardfloor )は、ドイツのテクノ、アシッド・ハウスユニットである。メンバーはオリバー・ボンツィオ(Oliver Bondzio )とラモン・ツェンカー(Ramon Zenker )の2名。日本での通称は「ドフロアー」、「アシッド鬼将軍」等。背の高いオリバーと小柄なラモンの組み合わせである事から、一部メディアの記事では「テクノ界のオール阪神巨人」とも評された。1980年代後半に誕生したアシッド・ハウスのシーンから約五年後、移り変わりの激しかった当時のダンスミュージック界において、再びアシッドをメインストリームに引っ張り出した二人組である。オリジナルなシカゴ製アシッドハウスのスタイルをさらに進化させ、次世代のアシッドハウスを開拓。これがシーンに大きな衝撃を与え、1993年にアシッドハウスリヴァイバルと称された一大ムーブメントへと発展した。過去のアシッドハウスによって発明されたローランドTB-303の使い方(本来メーカーが想定していたベース音シミュレーションではなく、レゾナンスを持ち上げた際に発せられる奇怪な音色を曲のメインに据えた奏法)の基本を受け継ぎつつ、その...
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Gwen Stefani / グウェン・ステファニー グウェン・ルネイ・ステファニー(Gwen Renée Stefani、1969年10月3日 - )は、アメリカ合衆国の女性歌手。スカパンクバンド、ノー・ダウトのボーカリストでもある。Stefani とはイタリア系のファミリーネームであり、実際には「ステファーニ」と発音する。 Stephanie(ステファニー)という女性のファーストネームとは全くの別物である。日本での愛称は「グウェンちゃん」、または「グウェン姉さん」。 カリフォルニア州オレンジ郡フラートンにて、イタリア系の父親とアイルランド系及びスコットランド系の母親の間に生まれる。隣接するアナハイムにあるロアラ高校に通い、その後、カリフォルニア州立大学フラトン校卒業。 十代の頃に、実の兄とバンドを組んだのがきっかけで音楽活動を始める。1992年にノー・ダウトのボーカルとしてアルバムデビュー。1995年の「Tragic Kingdom」がヒットした。 2001年にはU2のエレベーションツアーで前座を務めラスベガス公演ではゲストとしてライブに参加している。 この前後から女性ラッパーのEVEやテクノミュージシャンのモービーの作品への客...
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Hazel Dean / ヘイゼル・ディーン ヘイゼル・ディーン(Hazel Dean Poole、1952年10月27日生まれ)は、イギリスのダンスポップ歌手であり、1980年代にHi-NRGの代表的アーティストとして最大の成功を収めた人物である。イギリスのトップ10ヒット「Searchin' (I Gotta Find a Man)」、「Whatever I Do (Wherever I Go)」、「Who's Leaving Who」でよく知られている。また、ソングライターやプロデューサーとしても活躍している。 ディーンはエセックス州チェルムスフォード出身。1970年代半ばにキャリアをスタートし、長年クラブパフォーマーとして、また自身のブランドであるHi-NRGでゲイシーンで活躍した後、次の10年で脚光を浴びるようになる。彼女は「アメリカン・ダンス・クラブ連盟」(アメリカ)の「ベスト・ライブ・パフォーマー」に3度、「クラブ・ミラー・アワード」(イギリス)の「ベスト・ブリティッシュ・パフォーマー」に2度選出された。...
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Harue Momoyama / 桃山晴衣 桃山 晴衣(ももやま はるえ、1939年6月22日 - 2008年12月5日)は三味線シンガーソングライター。本名鹿島晴江。東京生まれ。6歳より三味線を習い始める。古曲宮薗節を継承しながら、家元制に縛られた邦楽の中で生きるのではなく、うたと、歌が生きている情況そのものを創造することに努めた。平安時代末期の歌謡集『梁塵秘抄』の蘇生をライフワークとし、日本の音、日本の音楽を追求し続けた。...
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Hikashu / ヒカシュー ヒカシュー(HIKASHU)は、日本のバンド。日本におけるテクノポップ黎明期の1970年代末から活躍し、P-MODEL、プラスチックスとともに「テクノ御三家」と呼ばれた。初期以降はテクノポップの枠にとどまらず、前衛音楽や前衛ロック、フリージャズの分野へと開拓していった。 1977年、巻上公一がプロデュースする演劇で音楽を担当した井上誠と山下康の2人によって結成された。そこへ巻上、海琳正道(三田超人)、戸辺哲によるバンド「ル・インチ」が合流、1978年ごろから5人で活動を開始して初期のスタイルとなる。というが、当時のメンバー変遷についてはもっと複雑であり、著書『ぼくこんなにおバカさん』の中で詳しく語られている。デビューから数年間のイメージでニュー・ウェイヴ・ロックやテクノポップ・バンドとして認知されているが、結成当初から演劇、フリーインプロヴィゼーション、民族音楽を取り入れたアプローチを続けていた。その後もジャズ、クラシック、雅楽など幅広い要素を取り込みながら活動を続け、現在はインプロヴィゼーションを演奏の根幹に取り込みながら、即興と作曲が共存するノンジャンルの音楽を志向している。...
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Hiroshi Miyagawa / 宮川泰 宮川 泰(みやがわ ひろし、1931年3月18日 - 2006年3月21日)は、日本の作曲家、編曲家、ピアニスト、タレントである。和製ポップスの開拓者の一人であり、1960年代のスター、ザ・ピーナッツの育ての親として数々のヒット曲を生み出し、他の歌手にも楽曲を提供するなど、日本ポップス界に大きな足跡を残した。また『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』、『宇宙戦艦ヤマト』、『ズームイン!!朝!』、『午後は○○おもいッきりテレビ』、『ズームイン!!SUPER』などテレビ音楽にも多数の作品を提供。ジャズの感覚を生かした軽妙ながらインパクトのある「宮川節」と称される音楽は、時間の短いTV番組のオープニングに重用された。「マツケンサンバII」の作曲などで広く知られる作曲家・編曲家の宮川彬良(本名:晶)は長男。バイオリニストの森由利子は義理の娘である。 作曲した作品も多いが、ザ・ピーナッツの「恋のフーガ」など、ザ・ピーナッツ関連の楽曲をはじめ、編曲(アレンジ)のみ手がけた作品も洋楽を中心に多数存在する。日本ポップス界の重鎮的存在ながらも、目立ちたがり屋で笑いが大好きな性格から、自らも積極的にTV番組...
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Herman's Hermits / ハーマンズ・ハーミッツ ハーマンズ・ハーミッツ(Herman's Hermits)は、イギリスのバンド。1960年代にブリティッシュ・インヴェイジョン勢力のバンドとして活動した。 1964年8月に発表したデビュー曲「朝からゴキゲン」がイギリスで大ヒットし、翌1965年にはビートルズの成功に続くべくアメリカに上陸する。ヴォーカルのピーター・ヌーンのアイドル的ルックスと、清潔感のある親しみやすいイメージ戦略で高い人気を博し、「ミセス・ブラウンのお嬢さん」「ヘンリー8世君」など多くの全米トップ10ヒット曲を連発した。1965年から1966年にかけてアメリカで大きな人気を獲得し、1966年にはMGMから主演映画『ホールド・オン!(英語版)』が封切られ、2月に来日公演を果たす。1967年には「見つめあう恋」が大ヒットするも、以後の全米ツアーでは前座のザ・フーやマッシュマッカーンに食われる始末となる。アメリカでは「雨にさよなら」「恋のミュージアム」などのスマッシュヒット(イギリスではノーチャート)を放つも、かつての勢いはなくなる。1968年には映画『レッツ・ゴー!ハーマンズ・ハーミッツ(英語版)』が封切られ...
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Heavy D / ヘヴィ・D ヘヴィ・D(Heavy D、本名:Dwight Arrington Myers、1967年5月24日 - 2011年11月8日)は、ジャマイカ生まれのラッパー、俳優。1980年後半に流行ったニュー・ジャック・スウィングの代表者として知られる。 DJ・エディ・F、ダンサーのG・フィズとトラブル・T・ロイ。ヘヴィ・Dは9歳のころにニューヨーク州マウントバーノンに移住。 シュガー・ヒル・ギャングの影響を受け、ストリートでラップを始める。初めは兄のラップ・グループに参加していたのだが、後に幼なじみとグループを結成し、地元で活躍していた。彼らは、86年のファースト・シングル「ミスター・ビッグ・スタッフ」で正式レコード・デビューを果たした。1980年代末から90年代前半にかけて、ヘヴィ・D&ザ・ボーイズ (Heavy D & the Boyz)名義でファンキーなトラックにリズミカルなラップを載せるラッパーとして活躍。小太りな体型にサングラスで、愛嬌あふれるキャラクターの持ち主としてヒップホップがポップスに浸透していく一翼を担っただけでなく、ピート・ロック&CLスムース...
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Hiroshi Fujiwara / 藤原ヒロシ 藤原 ヒロシ(ふじわら ひろし、1964年2月7日 - )は、三重県伊勢市出身のファッション・デザイナー、ミュージシャン。fragment design主宰。京都精華大学ポピュラーカルチャー学部客員教授。セツ・モードセミナー中退。父は競輪選手の藤原武である。 1964年、三重県伊勢市出身。高校時代から新宿のディスコ「ツバキハウス」へ通い、1982年に大貫憲章主催のクラブ・イベント「ロンドン・ナイト」でのファッション・コンテストにて優勝。ロンドン行きのチケットを手にし1ヶ月滞在。ロンドンではセックス・ピストルズプロデューサーでありヴィヴィアン・ウエストウッドのパートナーだったマルコム・マクラーレンら当時のシーンの中心人物と交流する。 マルコムの勧めにより、当時新ジャンルであったヒップホップカルチャーを体験すべく、翌1983年にニューヨークへ渡航。帰国後、東京でディスクジョッキーの活動を開始する。黎明期であった東京のクラブシーンにおいて日本人で初めて「スクラッチ」を披露するなど、NYで得た最先端のスキルとセンスを導入させる。 1985年高木完とのヒップホップユニット、タイニー・パンク...
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Hiroyuki Numba / 難波弘之 難波 弘之(なんば ひろゆき、1953年9月9日 -)は、日本の作曲家・編曲家、SF作家である。東京都豊島区巣鴨出身。学習院大学法学部法学科卒。東京音楽大学音楽学部教授(作曲指揮(映画放送音楽コース))。父の渡辺弘はジャズ・アコーディオン奏者(サックス奏者の渡辺弘とは同姓同名の別人)で、SF作家広瀬正のバンド仲間だった。母は上野音楽学校(東京芸術大学の前身)出身の声楽家。祖父の家を継ぐために養子になったため、難波姓となった。長女は歌手でシンガーソングライターの玲里。...
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Hi-STANDARD / ハイスタンダード Hi-STANDARD(ハイスタンダード)は、日本のパンク・ロックバンド。PIZZA OF DEATH RECORDS所属。略称はハイスタ。10-FEETやMONGOL800、SiM、WANIMA、04 Limited Sazabys、HEY-SMITH、SR622、等を始めとした現在のメロコアバンドへの影響を与えた。Hi-STANDARD主催の野外フェスAIR JAMはバンドが野外フェスを主催するきっかけとなり、10-FEETの京都大作戦、SiMのDEAD POP FESTIVAL、04 Limited SazabysのYON FES等に受け継がれている。...
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Hiroyuki Okita / 沖田浩之 沖田 浩之(おきた ひろゆき、1963年1月7日 - 1999年3月27日)は、日本の元アイドル、俳優。本名、置鮎 広之(おきあい ひろゆき)。愛称はヒロくん。身長175cm、体重63kg。血液型はA型。神奈川県川崎市出身。神奈川県立川崎北高等学校卒業、青山学院大学経済学部経済学科中退。 中学生時代から暴走族の集会に顔を出し、高校生になってからは新宿のディスコに通う不良少年だった。中学の仲間の知り合いがブティック「竹の子」でアルバイトしていたことから、沖田のグループは竹の子の服を着るようになるが、目立つ上、他の客に嫌がられるため、ディスコでは竹の子族の出入りが禁止される。そこで土曜の夜は普通の服でディスコで遊び、日曜正午は竹の子の服で、原宿の歩行者天国で踊るようになった。乱奈阿珠 (ランナーズ)というチームに所属していた。竹の子族は若者の支持を集めマスコミも注目。プチセブンが沖田の特集記事を掲載したのがきっかけで、沖田のファンが急増する。ファンに囲まれ踊ることもままならなくなり、1980年、高校3年生の5月で竹の子族をやめ、大学進学のため受験勉強を始める。一方、多くの芸能プロダク...